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田中秀男著 「生産現場の物理学(上)」についての感想
石田勝彦(いしだ・かつひこ)

田中秀男著
「生産現場の物理学(上)」についての感想
 
           石田勝彦(いしだ・かつひこ)
           1994年信州大学大学院工学系研究科修士課程修了
           1994年M東京化学同人入社
           1997年より,月刊誌「現代化学」の編集を担当
           現在,編集担当責任者
 学問は,単なる知識の寄せ集めではなく,系統的かつ体系的な知見の総体です.そのため,ある学習段階にいる者に対して,一貫した方針で,適切なレベルと内容の教育がなされなければ,学習者が学問的知見を身につけることは困難です.したがって良質な教科書を制作するには,1)読者(学習者)対象が明確である,2)執筆方針(教育方針)が一貫している,この二点が重要となります.本書はこの点が極めて明確です.

 1)読者対象
 
読者対象は,最低でも現場で2,3年経験を積んだ技術者と思われます.したがって,本書は大学で使われる教科書とはまったく異なる構成をとっています.章立てもちろんのこと,項目や記述にもその点は現れています.一例に挙げると,「第?章 気体の状態変化」の「1.圧力と温度」には七項目あります.
[1.分子の熱運動/2.物質の三態/3.モルとアボガドロ数/4.気体の圧力/5.圧力計/6,温度/7.温度計]
 すぐに気づくのは,5の圧力計と7の温度計の項目です.この2項目以外は,大学の教科書でも扱われる標準的な内容ですが,本書では現場の技術者を教育対象としているため,圧力,温度について概念的に教えるにとどまらず,必ず計器の取扱いと結びつけて解説がなされます.さらに,現場の計器にはさまざまな種類があることから,図解・写真入りで複数の計器が懇切丁寧に紹介されます.学習者が実際に現場の計器を手に取り,正しく使いこなせて初めて学習の最終到達点とみなしていることがわかります.

 2)執筆方針
 執筆方針は,一貫して現場のリスク管理,すなわち現場の技術者の安全に立脚しています.特に興味深いのは,徹底して単位の理解に力点が置かれている点です.単位は科学・技術の基本中の基本であり,どの教科書でも取扱う内容ですが,本書では特に物理単位系と工学単位系の違いに注意を喚起すべく,至る所で豊富な具体例とともに解説がなされます.ただでさえ単調になりがちな単位の解説で,「単位の歴史」にまでページを割いてあるのは徹底しすぎにも映りますが,国際単位系に移行しつつあった当時,技術現場で異なる二つの単位系が混在することに対する著者の強い危惧の念がここに感じ取れます.著者の危惧は確かに的を射ており,実際,国際単位系への移行に伴って生じた標準状態圧力の定義の変更(100kPaか101.325kPaか)をめぐって,つい最近も,日本熱測定学会標準状態圧力適正化ワーキンググループと,著名な物理化学者の間で議論が交わされました(資料).見解の違いは,小規模・精密測定を行う大学の実験室と,大規模プラントを取扱う技術現場でのメ数値感覚モの違いにも起因していると思われます.単位の混乱が技術現場に及ぶと深刻です.計器の読み誤り,数値の誤設定などに結びつき,重大な事故につながるミスを招きかねないからです.このような現場のリスク管理の観点から執筆されている点が,本書の最大の特徴です.大学生用の教科書には決して入らない「ジーデー・スクエア」等の項目が立てられている理由もこの観点ゆえと思われます.

 単位系の混乱が続く中にあって,技術現場のリスク管理を実現するうえで最重要の方策は何でしょうか.それは学術的議論に時間を費やすことではなく,「基礎学力」と「個別技術」とを結びつけた技術者教育を一刻も早く徹底して行うことでしょう.このような教育を行うには,机上の学識だけでは不十分であり,技術現場での経験に培われた深い専門性こそが求められます.本書はそのような教育的立場から20年も前に出された先見性ある具体策といえます.いまなお工場での爆発事故等が絶えない背景には,技術者教育の不備が見え隠れしており,本書がめざすところは古さを感じさせません.さらに,記述全般を通じて明らかなことは,本書執筆の内的動機が,「技術」に対する著者の「技術者としての」倫理観だという点です.

 以上,冒頭で述べた本書の1)と2)の明確さは,技術現場での長年の経験に裏打ちされた深い専門性と,高い技術者倫理が組合わさることで初めて実現したものと私は考えます.本書は,技術の質を高める良質の教科書であると同時に,技術者の質を高める技術者倫理の良書でもあると考えます.
                                  2008年9月29日 石田勝彦


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