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なぜ書くのか Fact & Fair
ノブレス オブリージュ:精神的貴族の役割
頂点を目指す研究者ならやらない仕事
 これが、最近私がもっとも力を入れた仕事ですが、周りを見回すと、たかが近所の人々に配る新聞に、著書、論文と同じだけの知力と精力を傾注する学者,研究者はいません。いるとは想像できません。真面目な研究者であれば、自分の名声と研究費につながる「仕事」には全力を尽くしますが、学者としての名声にも収入にもつながらないどころか、貴重な時間とお金が損するだけのこのような仕事は、学問とは無関係な低級な雑事として、多忙を理由に取り合いません。

noblesse oblige が私の信条
 これが現在、日本の頭脳ともてはやされている著名な学者、研究者たちの生き方です。これに対し私は、自分の研究能力と考え方に、いささか自信をもつ科学者としてこの態度はとりません。noblesse oblige が私の信条だからです。noblesse oblige は英訳すれば nobility is your obligation, 和訳すれば「高貴に生きよ」です。貴族の子弟に向けたメッセージで、「貴族は高貴に生きねばならない」「高貴に生きるものだけが貴族である」というヨーロッパ貴族思想の真髄です。
 貴族 noble と高貴 noblesseは、言葉の上では同じなので、このメッセージが意味を持つのは「貴族」「高貴」ということが、別々に定義され、具体的な意味を与えられた時だけです。

貴族と高貴の現代的意味
 まず「貴族」は、普通の人とは違う少数者の一つですが、どういう意味で違うかというと、天恵をうけ、神にえらばれたと自覚する者の意味にとって良いと思います。一方、「高貴」はイメージで表せば富士山で、言葉で表せば、「美しく、純粋に」でしょう。「高貴に生きる」とは「純粋に考え、純粋に行為する」ことになります。そうするのが高貴であるのは、それが現実には困難で、ありえないことだからです。自分の損得によって判断し、行為することは、人間のもっとも深い本性、いわば本能なので、それに反して考え、行為することは、ほとんど不可能に近いからです。

精神的貴族は例外中の例外
 noblesse oblige は、精神的貴族に与えられた生き方の指針ですが、それはつまるところ「決定的なことでは、自分の損得を顧慮せず、純粋に考え、行為せよ」ということです。でもそれは、本能むき出しの生存競争が激しくおこなわれる現代で、普通の人に出来ることではありません。出来る人がいるとすれば、能力か財力に相当の余裕があり人に限られますが、能力、財力ある人ほど、競争と損得にこだわりますから、精神的貴族がいるとすれば、それは例外の中に出現する例外です。その程度は、「千人に一人」というのが、多くの人が認めるところです。
 この例外を生む要因は、精神的なものですが、中でも一番影響が大きいのは,幼時の家庭内の文化環境でしょう。それに、生き方のモデルとしての家族群像でしょう。加えて、青年時代に接した人類最高の文化の影響があります。このような文化としては、宗教と自然科学が忘れられてはなりません。本能を乗り越えさせる文化としては、この二つが、もっとも強力かも知れないからです。

文化を受け継ぐのは誰か
 本能にしたがう限り人間は自己中心的ですが、自己中心の見方を改めさせてくれるのが文化です。文化は、自分もふくめた世界を、もう一つの自分が外から見るものだからです。でも文化に親しむことが、かならず、自己中心的な見方と利己的な態度を改めることにつながる訳ではありません。文化を利己的に利用宣伝することは、可能ですし、むしろ現代はそればかりの時代だからです。
 文化が文化本来の意味を持ちうるためには、自分の損得を考えない純粋な気持ちでの文化への接し方、考え方が必要です。文化の継承のためには、精神の純粋性にコミットした精神的貴族が、社会には必要なのです。

プロ信仰はアメリカ文化
 でも現在、noblesse oblige や「精神的貴族」は死語です。現代のエリートに課せられた義務は、「勝つこと」「成功すること」だけだからです。人は、何かのプロとして成功することを通じて、富と名声を得ると同時に社会の進歩に貢献するのだというのが、アメリカ流資本主義のエトスだからです。でもこのプロ信仰は、科学と芸術については間違っていると思います。このことは、たとえば絵画については、ゴッホを持ち出すまでもなく、誰でもが知っていることでしょう。科学の世界は芸術以上にゆがんでいます。いま科学の世界で評価されるのは、すぐビジネスに結びつく商業的価値だけだからです。いま科学は、このような科学を利用して名声と地位を得ようとする研究プロばかりが活躍する世界になってしまいました。

ゆがみを直す力は noblesse oblige
 でもこれは大きな誤りです。芸術が美の探究であるように、科学は真理の探究です。それが現在の商業的価値に結びつくのは、たまたまのことであって、その割合は、真理探究の分野の広がりのほんの一部に過ぎません。科学者が、商業的価値がないとみなされた分野の研究を放擲してしまうことは、社会にとってとんでもない大きな損失です。でもこの異常事態を止めるには、学会などプロ集団による組織的解決は期待できません。プロの場合、プロらしい人ほど視野は限られたものになり、全体を正しく見られる人は、いないからです。またたとえ、自分たちの営為の異常さに気付いても、絶対に専門集団(ギルド)の利益を守るのが、プロの倫理だからです。

競争万能が生む混沌の世界
 プロが活躍する現代とは、生存競争としての闘争が、本能むき出しで行われる時代です。この闘争は、実際の戦争以上に、参加者全員に、渾身の肉体的、精神的作業を要求します。その結果、現代は、歴史上まれにみる「活発な変化の時代」になっています。でもその内容は「混沌」と呼ぶにふさわしいものです。社運をかけた激しい競争とはいうものの、競争のゴールは、「あと1ミリ薄く」というように、当面の競争のためであって、大して意味のあるものではありません。そのため、5年10年、技術者が心身をすり減らして達成した独創的な成果も、競争の局面が変われば、意味を失い、あとに何も残らないのが現実です。
 しかし混沌だから大きな目で見ると何も変わらないかというと、そうではなく、競争の必然的結果として、「環境破壊」「情操破壊」「独占の拡大」「軍事化」など、大変なことが確実に進行し、誰もそれをとどめる事はできません。

世の中は盲人千人
 これが現代社会です。猥雑なほどの活気に満ち、人類の知力を総動員し、未来にむかって驀進しているように見えるのですが、気が付くと暗い社会です。先の見えない暗さです1~2年先のことは、精密な計画が立てられるほど見えるのに、それから先は急に見通しが効かない闇になります。それでいて、社会全体としては、確実にある方向に流れて行っています。それに気付いている人はいるのに、闇の中なので、何がおっこっているか、はっきり認識されないまま事態は悪化して行きます。
 なぜ暗いのか、答は簡単です。世界が暗いのではなく、みんなの視力が弱まっているのです。もっぱら知性が期待される人を含め、すべての人の視力が、近くは見えるが、先は見えない視力になっているのです。ことわざに「世の中は盲人千人」と言いますが、現代社会はまさにその通りの世界です。なぜそうなるのか。それは、何かを考える時、行為する時、まず自分の損得を気にする本能によって、目が曇らされているからです。最近は、学者の目の曇りが激しいのは、許されません。いま力のない庶民に大きな悲劇をもたらしている仕組みを研究し、まぶしいほどの光をあてることができないなら、学者としての資格も存在価値もありません。

「目明き」は誰か:精神的貴族
 「世の中は盲人千人」に続く言葉として、「目明き千人」説と「目明き一人」説があります。私は「目明き一人」説です。目明きとは、自分の損得に曇らされない目をもった精神的貴族のことと思うからです。すると「千人に一人」と言う割合もよく一致します。
 すると精神的貴族に期待される役割は、他の千人には見えてない「ホント」をみることです。でもそれは、たまたま目が曇ってない人に課せられた義務というような軽いものではありません。千人が、損得で目が曇っているため見えないというのは常識的な理解で、本当は、損が恐ろしくて見ないから見えないのです。恐れとは、見ることによって、友人を失うこと、地位を失うこと、収入を失うこと、生命を失うことです。これを忠告し、引き止めるのは、その関係で生活し、成功している人すべてです。精神的貴族には、これらすべてを承知した上、それでもnoblesse oblige を貫く強さが求められます。
 圧倒的多数のプロ科学者のなかで、そのような人は、千人に一人かもしれませんが、その影響力は、千対一ではありません。この一人は、千人がまったくやっていない分野に出て、時間をかけて、一から十までオリジナルな仕事をするからです。これが noblesse oblige の信条のもと、今まで私が目指してきたことです。特に定年後は、それをより純粋に追求できるようになりました。その結果、「水俣病の科学」「ゲノム医学入門」「人の値段 考え方と計算」の三つの研究をまとめることができました。いずれも20年以上、手がけていたテーマですが、定年後、一年から3年、連日、朝から深夜まで一つの仕事に没入できる条件をえて、はじめて可能になった仕事です。何かの分野のプロとしての生活では、とてもできないことでした。

大衆の中の「目明き」の役割 Fact & Fair
 たまたまこのような条件に恵まれた私は、これを天恵と考えました。そして天恵ならば、社会がもっとも解明を必要としていると信ずる問題に、自分の全知力を注ぐ義務があると感じました。その結果が上記三つの著書ですが、いま現在、それ以上に知力を傾注している20年来のテーマがあります。共有緑地を駐車場に変えようとする大衆の愚挙から、美しい緑地を守る努力です。これは、消費社会の中で欲望を刺激された大衆が、自己中心の損得から、共有の土地を狙って行う環境破壊です。
 Fact & Fair は、主権者でありながら、破壊者であるこのような大衆を相手に、考え直しを促す「投げ込みビラ」です。ただし、お願いや説得は一切なくて、事実を提示し、理性的な判断を示しただけのものです。この新聞を私は、まったく一人で作り、配布しています。この努力は、20数年前から、数人の仲間と協力してやっており、新聞もはじめは、協力して出しておりましたが、私が書いた本格的ルポルタージュが「運動に不利」という理由で拒否されて以来、一人で発行するようになりました。13年前のことで、そのルポルタージュが、Fact & Fair の創刊号になりました。
 大衆の欲望を利用したこの環境破壊を実現しようとしている元凶は、地元土建業者であり、その代弁者は、やくざ的体質の組合役員です。したがって、この戦いは、私の口を封じ、抹殺しようとするあらゆる策謀との生命を危険にさらしての戦いです。ほんのわずかな油断もミスも致命傷になる真剣勝負です。
 この勝たなければならない真剣勝負の中で、しっかり学んだ真理があります。それは、「ケンカは一人のほうが強い。組んだら負け」ということです。協力する場合も、相手の力を期待せず、一人で相手と戦う気の人間だけの軍団でなければダメです。大衆の側に立って戦うときも、大衆と組んではダメということです。大衆は、一人で戦う力がないし、判断が「自分の損得」中心だからです。大衆と組めば判断を曲げられ、最後は負けです。「数こそ力」という常識は間違いです。
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