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日本破産を生き残ろう
反戦反核教育の盲点

 反戦反核教育の盲点

 小笠原では六〇〇〇人が餓死

「絶海の孤島」という表現がそのままにあてはまるのが、小笠原の父島です。週に一回、東京から出る船で三〇時間かけて近づく父島は、突如、海上に突き出た溶岩の塊のようです。垂直に切り立った高い断崖が続き、いっさい人を寄せつけない世界のように見えます。入り組んだ入江の奥に、船が着ける唯一の場所、大村がありますが、人が住んでいるのもこの付近だけで、島にはこのほかに人の住んでいる集落はありません。そして島には道路は二本しかありません。それも北部だけ、南部にはまったく道はありません。道路の外は小笠原特有のジャングルです。たぶん、何十万年もかけて、不毛の溶岩の上に広がった原生林で、専門家の先導なしには一歩も中に進めない密林です。
 でも次の船が出るまで一週間、ほかに何もすることのない島で、私は毎日歩いていました。すると、道路から脇にいくつも人の踏み跡があることに気づきました。それをたどって行くと、かならず旧日本軍の要塞に出ました。海に向いた岩をくり抜いて、大砲の砲身を出す穴を開けただけのもので、一、二畳の広さでした。崖を伝って降りていくと、司令部だったらしい広い洞窟も発見しました。
 小笠原は硫黄島に続き、日本本土攻撃の拠点になると予想されたので、日本軍は全島民を退去させ、六〇〇〇人の兵隊をこの島に投入して、全島を要塞化したのでした。しかし実際は、米軍は沖縄に進みましたので、小笠原は戦争から取り残されました。同時に食糧の輸送供給路からも外されました。そのため、敗戦を待たずに、六〇〇〇人の日本軍が餓死したのです。

◎密林での恐怖

 ある日私は、そのような踏み跡の一つをたどっているうちに、方向を見失わないために持っていた磁石を深い落ち葉の中に落としてしまいました。あわてて落ち葉の中を探しているうちに、樹の皮らしいものを見つけました。しかし手に取った時、感触からそれは靴の皮かもしれないと気づきました。密林の中では、今も日本兵の遺留品が見つかると聞いていたからです。
 だれもいない密林の中で、怖くなった私はすぐに引き返しましたが、樹の後ろに誰か隠れているのではないかと思いはじめると、怖さが止まりませんでした。この時、私はたぶん、本部から要塞まで、昼を避け、暗闇の中を食糧を運んでいる最中、餓死線上をさまよっている他の部隊の兵隊に襲われ、必死の抵抗をしたため銃剣で一突きにされたのかもしれないあの靴の持ち主の、極度の不安の連続が想像できたように思いました。
 この時、私がこのように想像したのは、大岡昇平の作品『レイテ戦記』や『野火』から、フィリピンのレイテ島で密林の山中に逃げ込んだ日本軍兵士の間で何がおこったかを知っていたからでしょう。密林には人間に食べられるものはないのです。行き倒れの日本兵の
死体に取り付いて血を吸ってぶら下がっているヒルを食べた後、残っている食べ物は死体そのものしかありません。極限的状況の中で『野火』ではそれに踏み切れなかった主人公の抑制心理を描いていますが、反対のケースも多かったと想像されます。若い兵士の死体
に、尻と股の肉がなくて、フィリピン人を怖がらせたようです。ニューギニア戦では、このことはもっと一般的だったらしく、司令部は「人肉を食ったものは死刑」という軍命令をあらためて出しているほどです。

○非難されるべきは誰か?

 レイテ島では、投入兵力のうち八万人が戦死し、生還者(俘虜)は二五〇〇人でしたが、戦死者のうち敵弾に当たって死んだ者はおそらく二、三割で、大部分は病死か餓死、あるいはゲリラによって殺されたと見られています。そうなった理由は、退路を確保せず戦闘
を行ない、安易に密林に逃げ込んだためです。
 退路のない戦闘をするのは作戦上の初歩的間違いですが、これを行なったのが当時の最高作戦会議・大本営です。昭和天皇も臨席し、天皇の名で出された作戦命令ですが、これに異議を唱えた軍人もいました。福栄師団の参謀であった私の叔父・西村茂中佐もその一
人です。
 一九四四年二月、彼は作戦の根本的誤りを指摘するため、レイテから勝手に軍用機に乗って参謀本部に抗議に来ました。この時、横浜ニューグランドホテルに泊まっていた叔父に会いに行き、だれもいないレストランで話しました。最高の軍事機密に属することでした、二・二六事件に加担していたため、いつも冷や飯を食わされていた叔父は、最期を予感したのか、じつに素直に話しました。
 「海上を封鎖されたレイテで戦えば、ニューギニアのように悲惨なことになるから、師団をルソン島に移すように」言ったが、参謀本部は「陛下のご意思」と言って聞く耳をもたなかったというのです。当時「陛下のご意思」というのは単なる逃げ口上と思っていましたが、そうでないことを教えてくれるのが、ビックスの『昭和天皇』下巻です。天皇は作戦の実際に首を突っ込み、自分の考え通りに事を進めようとしたというのです。でも作戦は素人ですし、前線の苦しみの経験もないので、駄々っ子のように平凡な手をくりかえし、そのために日本軍が受けた損害ははかりしれないものがあります。戦後五〇年、それを初めて示してくれたのがビックスの本です。
 私は歴史教育で戦争全般を否定するのは間違いだと思います。人類の歴史で、自由も独立も解放もすべて戦争によって得られたものだからです。必要な戦争はあると思います。非難されるべきは、自分の間違った判断のために、無用の被害を与えた指導者です。戦争全般をすべて悪とする考えは、英雄的に戦った人びとに対して失礼な考えです。硫黄島では、日本兵二万人が六万の米軍を迎え撃ち、三万人に死傷を与えて玉砕しましたが、その強さは尊敬に値します。
 でもこの英雄的行為は、昭和天皇の取り巻きたちに間違った幻想を抱かせたようです。本土を舞台に硫黄島のような玉砕戦をやれば、米軍に百万規模の損害を与えることができ、講和を引き出すことができるという考えです。近衛文麿はこれらの人を「狂気」とよんで
決然と反対したと、ビツクスは書いています。トルーマンに原爆投下を決意させたのも、この「狂気」反撃への恐怖です。私は日本における原爆批判は、落としたアメリカに対する批判だけでなく、落とさせた日本のこの「狂気」戦略への批判がなければいけないと思います。


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