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日本破産を生き残ろう
私の終戦体験記

 私の終戦体験記

 私は、旧満州で敗戦にあった一人です。一二歳、中学一年の時でした。外地での敗戦後の運命は、人によって天と地ほどちがいますが、奥地の炭鉱にいた私の場合、それは苛酷なものでした。
 天皇の放送の終了とともに、すべてのものが活動を停止し、なくなってしまいました。学校も会社も商店も。人びとは、家の中に身をひそめました。全員に、白殺用の青酸カリが配られました。そこヘソ連軍先頭集団が到着しました。一目でわかる凶悪な囚人部隊でした。そして見境のない強姦、略奪が始まりました。
 これを見て中国人も略奪に立ちあがりました。棒の先に結びつけた包丁で武装した数千人の中国人が、数百人の日本人住宅街を取り囲み、はげしい投石で襲いかかってきたのです。こちらも投石で応戦しましたが、意味のない抵抗でした。しだいに追いつめられ、小学校に立てこもった日本人の中には、恐怖のあまり青酸カリで自殺するものが、次つぎに出ました。そして最後は無条件降伏しました。外に引きずり出され、すべてを取り上げられました。許されたのは、着ていた夏服と水筒だけ。それで満州の荒野に放り出され、そのままの姿で、厳寒の満州の冬を生き延びたのです。
 日本人街は、完全に破壊しつくされて住めないので、私たちは、わずかに残っていた憲兵隊の留置場に入りました。四畳半に一〇人くらいのゴロ寝でした。その夜から、日本に帰るまでの一年間、私は寝る時、服を脱いだことがなく、肌着を着替えたこともなく、風呂に入ったこともありません。この時かかった皮膚病は、皮膚深く食い込み、六〇年後のいま癌化して、私の苦痛になっています。
 もっとたいへんだったのは、食べることです。強制収容所でも捕虜でもありませんから、食糧が支給されるわけではありません。自分で買わなければなりませんが、無条件降伏の時、すべてを取り上げられていますから、ブリキ製の水筒を二重底にしたり、赤ん坊のおしめの中に金を隠すとかして、うまく成功した人以外は、食べもの無しです。それでも、男はソ連軍の使役に出て、一日一食だけ、ヒエのおかゆが食べられますが、女と子どもはそれもできません。
 しかたなく両親は、私たち兄妹を中国の知人にあずけましたが、売ってくれたと勘違いしたその中国人は、私たちを厳重な監禁状態に置きました。そして次に売り飛ばそうとして、代金を持ってきたので、びっくりした父親が引き取りにきて、やっと釈放されました。
 それからは、親に頼らず一人で生きました。子どもができることといったら、盗みと物売りです。鉄条網をくぐって貯炭場にもぐりこみ、石炭を盗んできては、街で売りました。その金で煙草と菓子を仕入れ、首からつるした一枚の板の上に置いて「買煙草(煙草買ってくれ)」と叫ぶ乞食商売をしました。

 私は今まで一度も、こういうことを、子どもにも、知人にも話したことがありませんし、書き記そうと思ったこともありません。それは決していまわしい記憶を忘れてしまいたいからではありません。むしろ六〇年前の、どの一瞬の記憶も、鮮明に頭の中にあります。
 しかし、語る気にならないのは、こういう極限的体験は、体験のない人に言葉で伝えることは、絶対に不可能だとわかっているからです。
 ですから私は、引揚者の書いた「思い出」とか「体験談」は、読んだことがありません。その意味で山崎豊子さんの小説『大地の子』も読まなかったのですが、なにかの偶然でNHKテレビの『大地の子」の一シーンを見たことがあります。集団で逃避していく場面でしたが、俳優たちの服装と表情を見た一瞬、「冗談はやめてくれ」と思いました。われわれが耐えた汚辱と恐怖が欠如しているのです。原因としての、中国人集団が描かれていないからです。
 ところが『暮しの手帖」八七号一二〇〇〇年一に掲載されていた天内みどりさんの「芙蓉の花-北朝鮮からの引揚げの記」は、比較的抵抗なく読めました。コリア人の恐ろしい行為が活字になったのは、初めてのことだと思います。淡々と正確に書けているからです。それは筆者が当時一二歳だったからだと思います。一二歳は、大人の世界がわかるけれど、まだ責任はなく、ものごとを客観的に見つめられる年齢です。私もやはり一二歳でした。それで、私も書く気になりました。
 ただし、自分はこんなひどい目にあったと書くつもりはありません。上には上があって、際限ないでしょう。そうではなくて、あのカタストロフ(崩壊)の中で、体で学んだことを書きましょう。これは今、伝える意味があると思います。日本には、ふたたびカタストロフがさけられないからです。

 あの八月一五日の天皇の放送中、だれかが「やっぱり敗けたんだ」と叫んだのを憶えています。敗戦はとうに始まっていたからです。第一弾は八月九日のソ連参戦でした。しかし、それ以上に驚いたのは、一一日朝、町を守備していた関東軍が家族を連れ、一夜のうちに逃げてしまったことを発見した時でした。中国人、コリア人の態度が急に変わりました。日本人小学校の校庭で排便し、注意されると、満州国紙幣の百円札でゆっくりと尻をふいて立ち去った、という話が伝わったのは、一三日です。
 天皇の放送終了後、私は友人宅に寄って、貸していた本を返してもらい、家に戻りました。明日からの生活はわからないと考えたからです。ところが家では、コミュニストだった父親が興奮していました。自分の予言通りの敗戦になったからです。午後二時半、父親は、母に催促されて預金をおろしに行きましたが、肩を落として帰ってきました。「もう、現金がない」と言われたのです。この時、体が凍りついた気がしました。手許には数十円しかありませんでしたから、私はこの瞬間、親から独立しました。そして、どんな瞬間にも、すぐ次のことを考えることを学びました。
 しかしこれは、過去を忘れることではありません。憲兵隊の留置場での四畳半に一〇人の生活の中で、私は、大人たちが、いかに早く過去をなくすかを知って驚きました。このような生活の中で、人びとの関心は口に何か入れること以外になくなります。こうした生活が続くと、人はすべて一カ月で、表情も関心も行動も、ルンペン乞食になることに気づきました。そして恐ろしいのは、いったん、これに染まると、正常な環境に戻っても、その気分がぬけないことです。引揚者がこうむった最大の被害はここにあると思います。それだけに次の経験は忘れられません。
 私たちが、憲兵隊の留置場に入った直後のことです。柵の外で中国人同士がけたたましく言い争うのが、聞こえました。出てみると、李さんが、大声で罵る中国人の真ん中に立ち、顔を真っ赤にして反論しています。手には、私たち家族に食べさせようとつくって持ってきた食事を、盆に載せて持っています。私たちにそれを手渡そうとしたら「日本人に親切にするのは、けしからん」と、皆から文句を言われていたのです。李さんは、父が事務長をしていた病院でコックをしていましたが、わが家では家族同様に扱われるので、週末にはかならず泊りにきて、来客のために料理をつくってくれていた人でした。
 やっと群集から離れて、私たちの所に来た李さんが、興奮さめやらずに言った言葉を憶えています。「親切にされた人が困っている時に、親切にしてあげるのが、なぜいけない。それをみんなでじゃまする。誰もおかしいと言わない。そういう中国人が、私は嫌い」。
 その後も李さんは、私たち家族に親切にしてくれました。そのため、中国人の間では、ますます孤立していったようですが、意に介している様子はありませんでした。引き揚げで、最後に別れるときは、泣いていました。その後、連絡するすべもなく、あの端正な顔が、いまだに忘れられないまま、六〇年たってしまいました。その後、文化大革命の際に、間違いなく殺されたのではないかと恐れます。

 帰国してからの生活は、さらにきびしいものでした。まともに生活している人びとの間にに疥癬だらけの乞食として帰ったからです。待っていたのは、「お前らどうせ食いつめて満州に行ったんだろう」という底意地悪い軽蔑と警戒と排除でした。こちらは、ルールを無視して生きるのが、対抗手段になりました。
 帰国後一年間はまったく学校に行かず、海岸で塩を焼いて稼ぎました。二年間空白なのに三年に編入させてくれた中学校にも、授業料は塩で納めました。その後もアルバイトのし続けです。東大でも、試験だけ受ければいいと思い、学生の身分をかくして進駐軍に勤めましたが、ついに喀血して倒れました。悪性の粟粒結核で数カ月の命といわれました。助かったのは、友人の母親が、自分の分のストレプトマイシンをくれたからです。当時のわが家の収入の数年分もしました。
 このように最低の生活をしながらも、学校の成績だけはいつでも最上位だったのは、敗戦までの蓄積のせいだと思います。当時、享受できた文化水準は高いものでした。客間には毎晩、医者、軍人、転向者が集まり、本格的議論をしていました。それを聞いて私もスターリン、北一輝など、わが家にある国禁の書を読んでいました。物理学も、父の方針で小学校六年生で高校程度をマスターしていました。カタストロフの中で残ったのは、身につけた豊かさだけでした。
 微笑では振り返れない六〇年でした。苦難の原因は、関東軍の棄民作戦にあります。これを計画推進した連中をなぜ裁判にかけなかったのかと悔やまれます。


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