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古い日本人よ さようなら
あやまることと許されることは別

 あやまることと許されることは別

 パリのアメリカ人
 二〇年以上も前、パリのオルリi空港でのことである。飛行機への搭乗を待つ間、スタ ンドでビールを飲みながら、隣に立っていた旅慣れしたタヒチの青年と話がはじまった。国連本部に勤めていて、休暇でニューヨークからタヒチヘ帰る途中だという。
 二人で話していると、その脇を突然、アメリカの農業団体の一行が荒々しくすり抜けて 行った。その時、その一人の荷物が、タヒチの青年の足許に置いてあった免税ショツプの 紙袋に触れ、これを倒した。大きな音がしてビンが割れ、液体が流れ出した。コニャック
の香りだった。
 倒したのは、すごく太った若い男だったが、びっくりして、すぐあやまりに来た。鼻の あたまに汗を出して、大きな体をこれ以上できないほど小さくして何回もあやまった。こ れを、腰に手をあててだまって聞いていたタヒチ青年は、やがて一言だけ言った。「どうし
ていただけるのでしょうか。私はこれを、そこの免税ショツプで買ったのです。同じもの を買って返していただければいいのです」。
二人で免税店に行って、同じコニャックを二本買って戻って来た。多分二万円位、当時 としては相当な額だった。太った男はすごくしょげていた。私は少し気の毒に思ったほど だが、太った男は自分の荷物をまとめると、突然、汚い言葉でののしりだし、捨て台詞を
はいて立ち去った。あやまれば許されるものと思っていたのが、弁償させられたので頭に 来たのだろう。

 「ごめんなさい」の意味
 でも、これは彼の思い違いである。欧米では、自分が人に損害を与えたら必ず弁償しな ければならない。あやまることは勝手だが、あやまれば、弁償を免除してもらえるとか、軽 くしてもらえると思うのは間違いだ。ところが日本では、この常識は通用しない。あやま
られたら、許さなければいけない。もしコニャツクを倒されたのが日本人だったら、アメ リカの農協さんが恐縮してあやまれば、ニッコリ笑って許すだろう。やせ我慢である。
 でも、やせ我慢も二万円が限度である。それ以上でも「ご免なさい」ですまされたらか なわない。しかし、許されるのが当然と考える人は、意外と多いのである。実はこのパリ 事件の直後だが、真夜中近くにわがアパートに戻ると、二階の奥さんがわが家の真ん中に.
這いつくばって、雑巾がけをしている。そして私の顔をみると、いきなり「すみません」を 繰り返す。洗濯の水を溢れさせたのだという。見ると、家中の天井からポタポタ水がした たり落ちて、半年ほど前に買った新築マンションの天井も壁も、無残に水びたしである。
午前二時過ぎ、いつまでも「ご免なさい」をくり返す奥さんに言った。「もう結構です。 もと通りに直していただければいいですから」。
 この時、奥さんの顔色がサッと変った。そしてそのまま帰ってしまった。それ以来、通 りで会っても決して挨拶をしなくなった。補修の相談にも行ける雰囲気ではなかった。そ して三ケ月後、急に引っ越して行った。管理事務所にも行先を告げずに。
彼女が一生懸命に雑巾がけをし、「御免なさい」をくり返したのは、「ただで許して下さ い」という意味だったのだろう。
「ごめんなさい」文化の特殊性 日本では、あやまるというのは、社会慣習上、「許して下さい」という意味になっている。
だからこそ、許しを求める表現が実に豊かに発達しているのだろう。「すみません」「ごめ なさい」「申し訳ない」「勘弁して下さい」。
 でもこのように、許しを求める、あるいは許しを強要するのは、かなり特殊な文化であ る。たしかに、欧米にもモExcuse meモ メPardonモ など、許しを求める言葉はある。直訳す れば「許して下さい」だが、これらは、肩が触れたりした軽い場合に限って使う言葉で、深 刻な場合には使わない。そんな時はメIユm sorryモ「私は悲しい」としか言わない。これは自 分が、非を認める、認めないにかかわらず使える言葉だからである。もし深刻な被害を与 えた相手に、その場で、「ご免なさい」「許して下さい」を連発したら、「許す、許さないは、 こちらの決めることだ」と一言われるに違いない。
 中国も日本とは大きく違う。私は子供の頃、中国にいたので日常会話は自然に覚えたが、 「ご免なさい」という言葉は記憶にない。中国人からそれを聞いた記憶がないのである。な にか人に損害を与えた時は、「アイヤi」と驚くだけ、非をせめられると「没法子」(仕方 がない)というだけだった。
 でも、これは私だけの特殊体験かも知れない。そこで、中国語が専門で、中国滞在の長 い友人二人に確かめてみた。「対不起」という表現はあるが、これは、人の前を通るような 軽い場合に限って使う言葉で、「ご免なさい」に相当する表現はないということだった。だ
いたい、日本人のようにペコペコ頭を下げる光景は、乞食にもないということだった。

 私の「あやまるな」教育
 日本のあやまり文化が特殊で、とても国際的に通用しないことに気付いていた私が、大 学で、つねづね学生に注意したことは、「許して下さいという意味では、あやまるな」とい うことだった。私はこれを、学生が白分の研究発表に遅刻したりして、人に迷惑をかけた
時に、きびしく言った。「あやまって、すむものではないから」と言った。
 こんな私にとって、毎日毎日、お詫びの光景ばかりを見せられる今年のニュースは、苦々 しいものだった。特にショックだったのは、その中の一人が私の弟子だったことである。
 彼には、形通りのおわびをしてほしくなかった。不祥事の責任が白分にあるなら、こう いうことが起こった原因を明らかにしたうえ、白分から身を引いてほしかった。「お国のた め」「組織のため」が優先し、どんなことをしても個人の倫理的責任が問われないという精
神的風土と、それを助けて、個人の責任を見えなくする官僚主義体制が、組織ぐるみ犯罪 の原因になっていることを明らかにして、去って行ってほしかった。


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