Jim Nishimura Web site

古い日本人よ さようなら
問題がある「一生懸命」と「和」

 問題がある「一生懸命」と「和」


 私は、日本語には、苦手というか、嫌いなことがいくつかある。まず、卑下語がきらい である。「こざいます」とは、いったことがない。自分が使わないだけでなく、会議で無内 容なことを「ノで、こざいまして」とだらだらやるのを聞くと、いらいらしてしまう。
漢字を覚えるのも嫌いだった。だからなんでもかんでも「かな」で書いた。でも漢字以 上にきらいだったのは「やまとことば」である。だいたい、現代日本語の表現があいまい で冗長なのは、文法構造はもちろん、意味までも「やまとことば」のレベルにとどまって
いるからだと考えた。いまもそう考えている。これを説明しよう。

 日本語の語彙は四種類
 日本語の語彙は四つからなっている。第一は「くう」「ねる」「する」というような「や まとことば」で、全部で五〇〇語ぐらいしかない。これにこの後、加わったのが、中国か らの漢字語彙で、これではじめて日本語が知的言語になった。しかし、現在使われる漢字
語彙のほとんどは中国から来たものではなく、明治のはじめ、翻訳と称し、欧米語に漢字 をあてはめていって作った和製漢語である。「白由」「個人」「正義」「良心」みんな翻訳漢 語である。これが第三で、さらに第四の語彙として「コミニュケーション」のように翻訳
しない外来語がある。
 つまり日本語は、ポリネシヤ系「やまとことば」の骨格の上に、中国語と欧米語の二つ の外来語を吸収したものである。このような吸収は他言語でも見られる。英語では、「やま とことば」にあたるのが古いドイツ語で、中国語にあたるのがフランス語である。ただし
同じアルファベットだから、二つが区別つかないのに対し、日本語では、仮名と漢字とい う形で二つの区別が明瞭に残っている。また、英語では、同じことをあらわすフランス語 系単語とドイツ語系単語、たとえばlabour とwork はニュアンスが違い、別の意味を分担
しているのに対し、日本語では、たとえば、「動」と「うごく」は音と訓、読み方の違いだ けで、まったく同じ意味の語として並列して残っている。
 その結果、漢字を訓読みにさえすれば、漢字語の意味が理解できるという不思議な心理 が発達した。「動員」は「人を動かすこと」となる。これでよい場合もあるだろう。しかし 常に成功するとは限らない。特にそれが破綻するのは、欧米語の漢語訳である。日本にな
いもの、知らないものだからである。ヴァイオリンを知らない人に「提琴」といっても何 がわかったろう。
 でも具体的なものはまだよい。深刻なのは抽象概念、特に倫理に関する抽象概念である。
たとえば「自由」「道徳」は訓読みしてみたところで、何もわからない。これは liberty morality の翻訳なのだから、英語を英語で説明した辞書を調べて、「自由=抑圧、隷属のな いこと」「道徳=人間として何が正しく何が間違っているかわかること」と理解するのが正 しいだろう。

 ジャスティス、フェアーが最重要語
 現在、この方法が特に必要なのは、justice, fair, conscienceなどの語である。これらの 概念こそは、個人の自由にもとづく民主主義の最重要な前提なのに、日本ではそう意識せ ずに来てしまった。これらの語は、たしかに「正義」「公正」「良心」と訳されているが、それは生きた日本語ではない。「正義の戦い」という侵略戦争のあと正義はうさんくさい 語になってしまった。「公正」はたいてい「公平」と混同されている。「りょうしん」と聞 いて「両親」でなく「良心」を思いつく人がどれくらいいるだろう。
 日本人は、これらの語が試験に出れば、それなりに答えるかもしれないが、justice, fair などの語があらわす概念が、日常的に頭の中に生きている訳ではない。これに対しアメリ カ人はそうではない。大人から子供まで、フェアーという語をほんとによく使う。いじめ
にあった子供も「それはフエアーじゃない」とさわぎたてる。つまりjustice, fair はいつ も人々の意識にある生きた語=概念である。それに反すると、八O歳の老人でも鉄格子の 中にぶちこんでしまう。
 英語ではjustice もfairもほとんど同じ意味で、「誰でもが心の中で認める基準とルール に照して正しいこと」をいう。この善悪の基準は良心に基づくもので、グループや会杜が 決めるものではないという考えが底にある。だからグループが決めたことが問違っている
と思えば「違う」と強く主張し、反対する。それが良心である。「会社のために嘘の証言を する」というようことは、まずありえない。やれば身の破滅である。

 間題がある一生懸命と「和」
 これに対し、日本人の意識の中で生きている倫理概念は何だろう。「一生懸命」と「和」 ではないか。最近の一連のスキャンダルで交代した社長の就任の挨拶もこれしかない。一 生懸命といえば、逮捕された前任者もそれこそ一生懸命だったろう。だから「何を一生懸
命やるかが問題なんだよ」と言いたくなる。
 「和」も安易に使ってはいけない語だと思う。会社などで「和」と言うとき、それは「言 い争いのないこと」「反対のないこと」である。何に対し反対がないのか。全体の方針に対 してである。日本では、全体の方針を、だれがどこで決定したのか、責任は暖昧なのだが、 少しでも決まったという雰囲気が作られると、反対は許されない。もし反対すると、「和を 乱す者」にまわりの人々が襲いかかってくる。まさしく「和」こそ「個人」の敵である。
 いま日本が直面している一番深刻な問題は、悪が組織ぐるみで行われていること、組織 犯罪を犯した人問に悪いことをした自覚がまったくないことである。これは個人の自由と 民主主義の基礎にある倫理概念を、いい加減にしてきた「つけ」だと思う。「一生懸命」と「和」に代わって[ジャスティス」と「フェアー」が生きた語にならなければならない。そ のためには、抽象概念を漢字に翻訳し、やまとことばで言い直すと、何かを理解した気に なる、日本人の安易な習慣を改めなければならない。

hajime@jimnishimura.jp