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どうしたら独創的研究ができるか
人間関係としての師と弟子

 人間関係としての師と弟子

 独創的研究には人間関係が重要なことを示しましたが,独創を目指す若い人が最初に出会うのは師との人間関係です.師との関係は重要です.師は単に研究上の影響を与えるだけでなく,研究者の生涯を支配できるからです.師の力でこれを潰すことは容易です.研究者は弱い存在だからです.その弱い研究者が師弟関係を自分の力で望むようにできるとは思いませんが,とりかえしのつかない災難を招かないよう,人間関係のレバーの一端に手をかける余地はあると思います.それには師弟の人間関係について表面のタテマエだけを信じる無邪気さではなく,ウラが透けて見えるリアルな目が必要です.そのためにと思って私の師弟関係の真実をお話しします
 私の師,矢木 栄は東大応用化学の出身ですが,化学工場で働いた経験から,技術としての化学工業は物理学を基礎にしなければならないと試験管中心の応用化学に対抗して化学工業科を作った改革児です.自身は物理の学力はまったくありませんでしたが,物理的な考え方を理解するカンは抜群でした.戦前MIT(米国マサチューセッツ工科大学)に留学していたせいか,人間関係は社交的でビジネスライクでした.新しもの好きで,目立つことを好み,原子力発電を最初に推進したのも彼です.それだけに超忙しい教授の見本で,自分の机で本を読んでいる姿など見かけたことがありません.
 その矢木と私が「化学プロセス工学」を作る共同研究をしたのは彼の定年前の3年間です.このときの共同研究は理想的なものでした.毎週2?3回必ず彼が私の机のところに来て,研究の進展を聴き理解し,それではつぎにこれができないだろうかと注文する繰返しでした.このような態度は以前の彼には想像できないものでした.多分,定年後の原子力研究所の所長への就任を断り,民間に行くことにしたため,政府に疎んじられるようになり,急に暇になったためです.暇になると本来の研究好きの気分が戻ってきたのでしょう.繰返し聞かされて耳に残っているのは「電気工学には回路論があってそれが中心だ.化学工学にも中心になる回路論を作ってくれ」「もう定年まで時間はない,急ごう」.
 でも彼との共同研究がうまくいったのはこのときだけで,その前はうまくいかず,一度関係が破綻しています.私が大学院では化学工学に進むことに決めたのは,泥臭い化学工学を一挙に変革してやろうという野心があったからです.化学工学はアメリカで始まった物理学不在の実用工学で,内容は単なる実験式の集積です.これに対し,私はすでにロシア語の文献から,ソ連での「乱流理論」,「反応性流体力学」の発達を知っていましたから,これらを使って実験式を見直せば,化学工学を見通しよい学問体系に変えられると踏んだのです.間違いなくほかの誰にもできない試みでした.
 当然,大きな反響を呼び,矢木も大げさに満足していましたが,周囲の先輩は冷淡でした.「実験しろ」の一言です.そしてある日急に矢木も「研究は実験にせよ」と言ってきました.事情がわかると理由は単純でした.急に会社から人員つきで多額の委託研究がきた.ところが担当の助教授は留学していないので,3人を指導して実験する仕事が修士1年の私にまわってきたのです.実験は酸素を使ってメタンを燃やし,アセチレンを作る危険な仕事でした.一回は大爆発を起こし,私は危うく全盲になるところでした.
 大学の研究室に失望した私は,もう少し自由に研究できる場所として航空宇宙技術研究所に就職を希望したところすぐ内定になりましたが,矢木には内緒にしていました.博士進学の確認を求められた際,「経済的理由で断念する」と答えたところ,すぐその場で友人のM化学社長に電話し,会社で採用した上,大学に派遣してほしいということでOKを得てしまいました.私は「実は」とは言えず,この二重内定の状態が数カ月続きました.最後の時点で,「実は」というと,あまりのことに怒るのも忘れ,社長に謝りの電話を入れましたが,その姿は矢木らしくなく忘れられません.これで矢木との関係も学科との関係も完全に切れたと思いました.
 ところが研究所に移って2年後に矢木から突然電話があり,「皆さんが戻ってこいというので戻ってこないか」「君にやってもらいたい新しい研究がある」ということでした.研究所は当然NOで話は難航しましたが,矢木が直接所長に頼んで兼任ということで解決してくれました.
 戻ると助手ながら新設講座を任され,「君には理論的研究を頼みたい.化学工学の回路理論を作ってほしい」ということで,「化学プロセス工学」の共同研究が始まったのでした.
 こうして研究が完成すると,矢木はことごとく自分の貢献を強調しました.共著「化学プロセス工学」は,自分が一字も書いていないにもかかわらず印税は50%取りました.不満に思った私が人づてに聞くと「印税は貢献度の表示だ」とのことでした.またこの成果を初めて国際会議で発表する際も自分が出席の申し込みをし,私に原稿を書かせた上,最終段階では私の名を削ってしまいました.絶対の危機です.訂正するには自分も出席するしかありませんが,当時,助手にはそういう出張は認められませんでした.そこでパトロンからの援助金を使って自費でチェコに行き,演壇の下から矢木の講演を聴いたのでした.
 でもこのことが矢木との人間関係を変えました.それまでは研究では同僚でも心理的には師弟関係でしたが,それが友人,同僚に変わったのです.人間関係の機微もあけすけに話し合えるようになりました.私が東大を追放されるのを最後に食い止めたのは矢木でした.この難しい仕事をあえてやった矢木の心中は周囲の人には想像もできないものです.矢木と私のやりつやられつの関係を知らないし,それでいながら関係が切れずに続いた真の理由を想像できないからです.彼は私のことが好きだったし,私も彼のことが好きだったということをです.
 私が彼を好きになり,大学院で彼につこうと決心した理由は単純です.大学院でのテーマとして「逆噴流の微粒化理論に乱流理論を適用する可能性」を考えていた私は,航空の岡崎教授のところへ相談に行ったところ,「それは君には無理だよ.Heisenbergがやった問題だからね」と一蹴されました.ところが初めて会った矢木教授にちょっと相談がありますと話を始めると,最初は立ち話だったのに急に真顔になり「どうぞお座り下さい」と席をすすめ,机を挟んで15分の真剣な話になりました.こういう態度は当時の教授には想像できないことでした.
 この出会いは彼にも印象を与えたと思いますが,彼の私に対する評価印象を決定的にしたのは,試験答案だったと思います.彼の研究室への進学を決心した私は,彼の講義の期末試験をとって抜群の成績を取ろうと準備しました.航空出身の助教授が出した問題は,論文執筆中の難問でしたが,よい問題でした.3時間かけてその一問を完全に解き終わったときの快感はいまも忘れません.多分,助教授と同じレベルで解いた私の答案が矢木に決定的印象を与えたのだと思います.
 独創を目指す若い人にとって、師との人間関係が、いかに重要であるかが理解されたと思います。そしてそれを踏まえた上で、 1)人間関係には想像できないウラがあること  2)人を動かすものは理念や欲のほかに愛憎感情があること  3)自分が動かなければ人間関係は作れないこと、の3点をぜひ忘れないでほしいと思います。

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