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先に逝った宇井純へ
西村 肇
現代化学 2007年2月号
先に逝った宇井 純へ
西村 肇


 宇井君,また君が先に行ってしまったな.君と僕は不思議なほど同じときに同じことを同じようにやってきたのだが,肝心なことになると君のほうが1,2年は早い.今度もそうではないかという気がする.そんな僕は君の追悼記を書く気にはならないのだが,数十年まったく同じ環境を生きて,至近距離で君を見てきたほとんど唯一人の人間として,われわれをとりまいた歴史について証言を残さなければと思っている.歴史といっても年代記ではなく,大きな歴史の前に人はなぜそう動いたか,まわりはどう感じ,何をしたか,社会と人間心理を至近で見た歴史だ.ところがこういう歴史が少ない.時代を共有しない人が時代と人を理解するのにはぜひ必要なのにだ.
 これを強く感じたのは,毎日新聞に出た宇沢弘文氏の追悼文を見たときだ.彼の理想主義を結晶化した感動的な葬送の辞だが,「リベラルな社会を目指した倫理的,理知的,人間的巨人」という形容には,彼を近くで知る人は少なからず戸惑いを感ずると思う.でもすぐそれは,君を少し離れて見たときの姿として納得したと思う.人は近くで見た姿と遠くで見た姿とどちらが本当かわからないからだ.でも僕はそれで納得はしない.遠くで見た姿とは,君が日本中で有名になった40歳以後の姿だが,君の希有の能力が発揮された最高の仕事は,それを知る人が周囲に数人しかいなかった30歳前半の仕事だからだ.
 そこに居合わせたのが僕だ.二人は同じ年に理氓ノ入っているが相知ることはなく,僕が化学工学の助手として1962年大学に戻ってから,大学院でポリマーの流動特性を調べていた君とよく一緒に勉強した.当時,研究者は小型試験機で特性を調べていたが,君は現場主義だから,大学に実際のスクリュー押出機を据えてこれでデータをとった.誰もやらないことだから,論文はすぐ米国の専門誌に受理された.大変なのは試料のポリマーだが,君はメーカーから不合格品ということで大量を無料で手に入れていた.
 このころ,君は毎月1週間は学校に来なかった.聞くと,大阪や神戸の押出し加工業者の技術指導に行くという.これらの業者は極貧の小企業で,中国人,韓国人が多く,セールスマンさえ近づかなかったが,君は平気だから指導を頼まれて1?2万円の謝礼をもらっていたようだ.3軒まわると4?5万円だが,当時助手の僕の給料が2万円ちょっとだから,奥さんとの生活を支えて余りが出る.この余りで,毎月水俣に地方新聞(熊本日日)を集めに行くという.当時はコピー機がないから資料が表裏なら現物を2部買って台紙に貼り付けるしかなかった.注文しようにもファックスはなく,電話もほとんどなく,出向くしかなかった.
 何をまとめているのか聞くと,水俣病の悲惨なことは話さず「悲劇あり,喜劇あり,とんでもねえ物語だ」とだけ言っていた.それが僕にはピンとこなかった.水俣病の問題は,1956年の公式発見以来,その原因について社会の関心をひいてきたが,1959年,有機水銀が原因とわかって一段落し,社会の関心をひかなくなっていた.社会の関心は,総資本と総労働の対決としての1959年の三池炭坑争議※1,1960年の安保闘争に集中していた.地元水俣の関心さえ,1962年は三池争議の再来であるチッソの争議に集中しており,水俣病のことなど考える人はなかった.君が水俣を歩きまわっていたのはこんなときだった.
 こうして1963年3月と10月の「技術史研究」に富田八郎(とんだやろう)の筆名で,「水俣病(1),(2)」があらわれた.当時の印象は「ただ長い,どこが技術史研究か」ということだったと憶えている.当時の「技術史研究」は,タイプ印刷のサークル機関誌だったが,そこに突然100枚以上の原稿があらわれ,その内容が,技術とは縁のない病状,病名,医学論文の全文引用だったからだ.
 しかし,その後自分で水俣病を本格的に研究しだして,己の不明を深く恥じた.ショックと共に感心した点が三つある.まず目次を見るとわかることだが,問題の全体像をおさえる君の知識のひろがりと構成力の見事さだ.つぎに,膨大な医学論文,化学論文を精密に検討した上で引用し,適確な評価を下す君の理解力と判断力だ.最後に,地道に誠実な努力をした研究者に対する人間的な共感と尊敬の素直な表現だ.研究者のあるべき姿を示したつぎの言葉は印象的だ.
 「この小文(武内の論文)を読む諸氏が,筆者(宇井)と同様に,一つ一つの研究結果を検定して自分の結論を出していただきたいと考えるからである.それだけの手数を省いた手軽な結論を求める態度は科学とは無縁のものであろう.更に比較的因果関係の単純であった水俣病の場合でさえ,公害の原因追求はどれだけ困難なものであったか,今後はどれ程のエネルギーを要するかについて考えてほしい」
 このときの君の態度こそは,まさに宇沢氏のいう「理知的,人間的」なものだった.しかしこの態度は1968年の「公害の政治学」ではすこぶる弱くなり,WHOから帰ってきて東大で公開自主講座の「公害原論」を始めると完全に消えてしまい,ついに戻ることはなかった.なぜなのだ.

 でもここまでなら君と僕の近さの本質を語ったことにならない.また,当時の社会心理を語ったことにならない.それらを語る上で大事な点は,二人とも生粋の左翼だということだ.当時,左翼とは,利己主義を否定し民衆のために尽くすという意味で,能力を自覚している人間にとって,絶対の倫理的要請だった.勉強も進学も研究も自分のためではなかった.新しい世界を実現するためだった.こう思ったとき,どんなスピードで膨大な勉強ができ,それがしっかり頭に入るものなのか,自己中心主義で生きている人々には想像も理解もできないと思う.理科系であっても,マルクス,エンゲルス,レーニンの主要著作は1〜2年間で読破した.その同じ気構えで,数学,物理をやったその学力は,今の同じ世代とは比べものにならないぐらい高かった.
 「水俣病」の目次を見ると,研究の経験がないにもかかわらず,問題の全貌を見渡す識見の高さに今の人は驚かされるかもしれないが,マルクスを熟読し,資本論の体系で物を考える当時の左翼の仲間にとっては,この程度のことは珍しいことではなかった.むしろ水俣に毎月出かけて資料を集め,医学論文を仔細に検討する態度こそ珍しかった.そもそも社会が忘れてしまって注目しない問題を地道に掘り起こしていく態度こそ珍しかった.ここで君を動かした原動力は,ときどき君がもらしていたように「このとんでもない話の全貌を明らかにすれば,世の中は動く」という確信だったと思う.
 当時の倫理的左翼人の特質は,自分の足で立ち行動する大人だったこと,そして志のために動く人を不利益をかえり見ず助けることだった.500ページにおよぶ「水俣病」も左翼仲間の力なしには日の目は見ないはずだった.これははじめ「技術史研究」に出たが,これは君と僕がその会員だった左翼技術者の研究サークル「現代技術史研究会」の機関誌だった.会員250人ほどの会費で運営されるその雑誌に,君がいきなり100枚,150枚という原稿を持ち込んだのだ.2回までは出したが,あと10回は続くというので,とても無理,断るべきという意見が出て議論が険悪になったとき,近藤完一が「おれが何とかしてみる」と引き取った.
 近藤完一は当時,合成化学労働組合連合会(合化労連)の書記だった.委員長は左翼技術者の大物,太田薫だった.近藤は合化労連の機関誌にこれを連載できないかと考えたが,チッソ労組は連合会の主要メンバー,お客だから,それを真正面からたたく君の原稿をのせるのには絶対に反対がある.そこで近藤は太田薫に決断を仰いだ.その結果が連載の実現だった.
 最後になるが,君と僕との関係を振り返ってみたい.君と僕は仕事も思想も至近の距離にいながら打ち解けて話したことはない.それは左翼でも反対するものが違っていたからだ.僕は徹底して反資本主義,反米だったが,君は日本共産党をたたくという意味で,徹底した反代々木※2だった.各人の思想は一貫しているわけではない.僕ははじめ反米・親ソだったのに,ソ連を個人旅行して,その官僚主義を嫌悪して反ソになった.しかし資本主義を好きになってはいない.君もしだいに変わったように見える.人知れず「水俣病」を書いていた若い宇井と,海外にいて東大紛争を避けながら帰国後は「反権力」と「東大解体」の象徴となった宇井とは違う.その宇井が,自分が富田八郎だと名乗らなかったのは,人格的な違和感があったからではないか.これ以上はそちらに行って話そう.

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