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の値段 考え方と計算  付録 「バカの壁」編集者の値段

付録 『バカの壁』編集者の値段

表彰式での疑問
 2001年10月、私が『水俣病の科学』で毎日出版文化賞を授与された翌々年、今度は養老孟司が『バカの壁』でベストセラー賞にあたる出版文化特別賞を授与されました。毎日出版文化賞は著者と出版社の両方にあたえられる賞ですが、養老孟司が著者として賞状を受けたあと、出版社を代表して新潮社の社長が賞状をもらいました。
私はこの時、非常に奇異な感じを受けました。この本の出版の経緯を知っている私は、このベストセラーを表彰するならまず編集者を、つぎに著者を表彰すればよいのに、なぜ二人も表彰するのに肝心の編集者がいないんだという気持ちです。
まあ表彰は代表者が受ければよいとしても、会社はこの編集者の貢献に報いるのにいくら出すだろうかと想像してみました。大盤振る舞いしたとして社長賞50万円でしょう。それでよいのかという疑問がこの項を書く気になった動機です。
 書籍の企画と編集は著作、発明と同じ知的創造活動でありますが、著作、発明の結果が、著作権、特許という形で法的に保護されているのに対し、企画、編集にはこれに相当する法的認定がありませんので、企画編集者の功績でどんなに大きな利益をあげても、編集者には貢献分を要求できる法的根拠はありません。
しかし、合理的な計算によって貢献に相当する金額が明らかになれば、当事者間の交渉によってその支払いを要望することはできるはずです。また、最初からそのような方法で創造的貢献に対する対価の問題を解決すると雇用契約の中で定めておくこともできるはずです。

『バカの壁』の大記録
『バカの壁』は、立場の違いで話が通じないというだれしもが感じる日常的体験について「なぜそうなるのか」をやさしい言葉で説き明かした本のようです。「ようです」というのは私自身は同僚養老孟司のいいそうなことがわかっているつもりなので、本屋の店頭でパラッと見ただけで丁寧に中身を読んではいないからです。
 この本は昨年(2003年)4月10日に創刊された新潮新書10冊の中の1冊でしたが、一年ちょっとで360万部売れ、新書としては販売部数の新記録をつくりました。老舗の新潮社がはじめて出す新書の一冊ですから、新潮社としては相当の期待、目算はあったでしょうが、10冊のうちのトップとは思っていなかったようです。ビートたけし『裸の王様』やドナルド・キーン『明治天皇を語る』のほうを本命と考えていたようです。
 ところがふたを開けてみると第一週から『バカの壁』が一位でした。しかし、売れてはいましたが、それが300万部を超えるとはだれも予想できませんでした。ブレイクしたのは養老孟司がテレビに出だしてからです。
 テレビが養老孟司を出演させた理由は、なんとなく「この本が売れているらしい」という情報と、なんといってもこの本のタイトルのせいと思われます。テレビ出演の影響はすさまじく、書店の店頭では売り切れが続出しました。この「売れているらしい」という雰囲気を伝えることは販売上非常に効果的です。読者は売れているらしい本に殺到する傾向があるからです。こうなるとまたテレビがとり上げ、養老孟司もテレビに出まくり大記録が達成されました。
『バカの壁』の企画と題名
 この本を企画したのは、養老孟司と古いつき合いのある編集者のXでした。彼は20年ほど前に養老がある本の中で使った「バカの壁」という言葉を覚えていて、「『バカの壁』をキーワードにして書いてほしい」と新書の一冊を依頼したのです。ところが養老は講演などで非常に忙しく、執筆が進みません。そこで編集者三人を相手に養老にしゃべってもらい、3人がそれを書きとり、編集するという方法をとりました。結果的にはこれが、けっこうむずかしい内容を非常にやさしく、わかりやすいものにすることになったのです。

『バカの壁』がもたらした利益
 定価680円の『バカの壁』が現在までに370万部売れたことによって、新潮社にもたらされた利益を推定してみましょう。まず、新潮社としての売上額を推定します。本は出版社から取次店、本屋を通して読者の手に渡りますが、出版社が取次店から受けとるのは定価の約70%の金額です。また本は通常、取次店に渡した部数の40%ほどが返品として返ってきます。本屋で品切れを出した『バカの壁』では返本率はもっと少ないでしょうから、その率は高々5%程度と見てよいと思います。すると新潮社の売上額は
  (680円*0.7)*(370万*0.95)=17億円(0.68kY*0.7*3.7M*0.95=1.67GY)
 つぎに利益を求めてみます。それには売り上げから費用を引けばよいのです。費用は著者印税、編集経費、印刷費、販売経費などからなりますが、これが新書一点でどのくらいになるかを教えてくれるのが初版の冊数です。出版社はよほど強気でない限り、初版の冊数を全部売れてほんのわずかの利益が出るように決めます。より正確にいうと、初版の70%が売れた時点で、ちょうど採算がトントンになる、つまり損も得もしないように決めます。『バカの壁』は初版3万部でしたが、新書の初版は強気でなければ2万部です。つまり損益分岐冊数は14,000冊です。ということは総費用が
  680円*0.7*14,000=660万円(0.68kY*0.7*14k=6.6MY)
を意味します。
 初版以降は増刷といいますが、増刷分ではいくつかの経費がなくなります。まず編集経費がなくなり、印刷費のうち組版代がなくなります。また品切れをおこすほどのベストセラーなら、販売宣伝費も売り上げに対する比率としては大幅に下がります。したがって370万部売った『バカの壁』の増刷分について一冊あたりの原価を推定してみると、著者印税を10%と推定して68円、印刷費はほとんど紙代、インク代ですから高くて100円、その他含めて250円です。出版社から取次への卸値が 680*0.7=476 円ですから、費用の割合は 250/476=0.5 で約50%となります。
 売り上げから費用を差し引いた残りが営業利益ですから、利益率は50%になります。したがって売り上げ17億円の『バカの壁』が新潮社にもたらした営業利益は8億円のはずです。税引後利益はこの60%、約5億円と見積もられます。

分配すべき利益
本書の考え方にしたがってオーナー経営者、事業化リーダー、企画編集者の間で分配すべき利益を求めるには、リスクある企画へのオーナー経営者の投資→決断への見返りとして、危険負担コストを差し引かねばなりません。新書出版のリスクは採算割れという形であらわれますが、新書の採算割れ率は、代表的新書の場合、5年前は15〜20%でしたが最近は25〜35%になっています。新潮新書も同じとすると年間60点発行のうちの30%、約20冊が採算割れと推定されます。
新書一点の出版費用は660万円でした。採算割れの場合、平均して、この半分の費用は回収したとすると、一点300万円の損失、20点で6000万円の損失になります。2年分で1億2000万円です。
記録的ベストセラーになった『バカの壁』の利益で、このリスク損失をカバーすることにすると、分配すべき利益は5億円から1億円引いて4億円になります。

企画編集者の貢献の値段
本書の考えでは、この四億円はオーナー経営者、事業化リーダー、企画編集者の三者で貢献に応じて分配するべきです。三者の貢献度の決定には、十分な情報と客観的な目が必要ですが、情報にくわしい人は客観的になりにくく、客観に徹する人には情報が集まらないものです。筆者には新潮社の内部情報はまったくわからないので、岡目八目、外から見ただけの議論になりますが、そのつもりでお読みください。
『バカの壁』成功の基礎になったのは、いうまでもないことですが、新潮新書の創刊、それも文芸路線の老舗らしくない完全大衆路線の新書の創刊です。
 新潮社には、もともと文芸路線のほかに『週刊新潮』『フォーカス』の大衆路線があります。大衆路線でもうけておいて、出版文化に寄与するような重厚な本を出しているところがありました。ところが『フォーカス』が『フライデー』に負けて廃刊になり、『週刊新潮』が裁判で負けつづけ、経営はだいぶあやしくなっているとのウワサです。
 大手最後の新書創刊というのは、現在の出版市場をよく調べた事業化リーダーが、時代に合わなくなった新潮社の体質に気づき、強引に打った手だと思います。強引とは、いままでの新潮社出版物の読者以外の読者を対象にした大衆路線の新書だということです。「ちくま新書」などとは違います。
 結果的にこれは成功しました。したがって、それがだれであるかは知りませんが、これを計画した事業化リーダーは、当の編集者と同じ程度の貢献を認められてよいと思います。と同時に、未曾有の経営危機の中でも、あわてず、危険の大きい路線転換を主張する事業化リーダーをしりぞけず、違った方向に踏み切ったオーナー経営者の貢献も認めてよいと思います。
 したがって、三者の貢献は等しく、1/3ずつというのが私の見解です。すると編集者の受けとるべき額は1億3000万円になります。これは著者が受けとった印税の額 680円*0.1*370万=2億5000万円の約半分です。おかしくない額と思います。



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