竹内敏晴

ドラマの中の人間 人形の家


『人形の家』と聞けば、名を知らぬ人はほとんどいない。しかし、これを読んだことのある人は

と言えば、一般の市民や学生には極めて少ないのが常です。イプセソのこの作品は、近代の女性

解放の思想に大きな影響を与えた杜会問題劇として有名で、女主人公のノーラは、人形のように

かわいがられて美しく育つが、人間として女として目覚めて、夫も子どもも捨てて家を出て行く、

いわゆる「新しい女」の代表とされて、熱狂的に誉め讃えられもし、逆に不道徳の極みとして罵

署雑言の的になりもしたのでした。そこに定着しているイメージは行動的な強い女、誇り高い革

新者です。わたし自身にしても、新劇の世界に入った青年の頃この戯曲を読んだには違いないは

ずだげれどさっぱり記憶がない。ということは、世間一般のイメージが先に立って、その目です

らすらと文字を辿って、ああそうか、と済ませてしまったのではなかろうか、と今になって思う

のです。

かえって「ノラは家出してからどうなったかP」と題する魯迅の文章が記憶に残っていたりす

る。ヨーロッバでは戯曲発表当時からこの問題がやかましく議論されたことは有名です。戯曲が

発表された一八七八年は日本で言えぼ明治維新後十年、北欧でも女性は家庭を守り、夫にっかえ

子を育てることに専念するのが本分とされていた時代、職業を持って自立する女性と言えば水商

売と同一視する人が多かった時代と言っていいのですから、ノーラの家出は経済的に見てもあま

りに非現実だとする議論が多かったのは無理もないと言えるでしょう。

そして日本では一九四五年の敗戦とデモクラシーの奔流の中で一気に押し進められた、婦人参

政権の実現や職業上の男女差別の撒廃などの女性の杜会的地位向上の運動の中で、女性解放のシ

ソボルとしてノーラが光を浴びました。

だが、これらはわたしにとってみな流れ去ってゆく外界の出来事でした。身にしみる切実さを

もってノーラの姿がわたしに立ち現れてきたことはなかった。しかし五十歳を過ぎたある日、ふ

と戯曲を手に取ったわたしは、読み進むにつれて傍然とした。あいまいな思い込みとまるで違う

---。いきなり生き生きと、ひたむきな女のいのちがわたしを打った、と言いましょうか。その

時から、もう十数年、今、わたしは改めて過去の杜会問題意識の反映としてのレッテルなどをす

べて捨てて、じかに一篇の戯曲のことばたちから、ノーラという女性にふれてゆきたい、と思い

ます。かの女の歓び、怖れ、狭さ、愚かさ、目覚めと欲望、そのひとつひとつを辿りながら、女

のいのちのうごめきにふれてゆけれぱ、と願います。