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冒険する頭 新しい科学の世界
七大都市排ガス規制調査団のひとりとして

 七大都市排ガス規制調査団のひとりとして

 事実だげを書き残す

 その時、「文芸春秋」と、「実業の目本」という二つの雑誌が中心になって、公害反対運動を猛烈に批判するキャンペーンをはじめました。
 とくに、七大都市調査団がやり玉にあげられました。調査団のやったことは、まるで中世の魔女裁判だというのです。でたらめな証言や拷間によって、人びとをつぎからつぎに魔女に仕立てあげ、火あぶりの刑にした魔女裁判と、七大都市調査団の活動が本質的に同じだというのです。そして、多くの人が、調査団の活動に声援を送ったことをさして、一種の集団ヒステリー症状だと決めつけていました。
 これを見た時、これはきたないやり方だと思いました。排ガス規制問題は、そういう技術があるかどうかという事実をめぐっての攻防であり、これにっいてははっきり勝負があった時、話は一転して、こういう間題を追求する態度や心理の問題に移されてしまったのです。七大都市調査団の聞きとりは、たしかに、メーカiからお話をうかがうという消極的なものではなぐて、櫨極的にメーカーから真実を引ぎだそうとるものでした。
 そのため、私たちは、メーカーにたいし
「トヨタさんの排ガス技術の現状はいかがなものでございましょうか。ご説明をおねがい
いたします」
 などとはいわずに、いきなり
「この型のエンジンを、こういう条件で動かした時の排ガスの濃度はいくらですか」
 というように聞きただしたのでした。あらかじめよく調査して、もしほんとうの答えがでたら前へ進もう、もしとうの答えがでなかったら、それはおかしいということを、この資料から指摘しようと考えぬいての質問だったのです。

 その意味では、法廷における検察官の質問と似ていたかもしれません、これは相手がうそをいう可能性がある時には、やむをえずとる当然の方法と思いますが、これが魔女裁判ということに飛躍したのです。
 この聞きとりの背後で、メーカーがやっていたことを知っている人には、とても魔女裁判などという連想はでてこないと思いますが、そんなことを知らない人たちにとっては、このキャンペーンの効果は絶大でした。私も何人もの親しい友人から
「おまえもちょっとやりすぎたみたいだな」
 といわれました。面とむかっていってくれる人はよいほうで、「学者らしくない」、「政治的だ」、「公害だけに目がくらんで、目本の技術をつぶしてしまおうとしている」という声が、まわりからうるさく聞こえてくるようになりました。
 大学の中を歩いても、顔だけはおたがいに知っているというような先生たちが、親しくあいさつするのをさけるのが感じられました。はじめは気のせいかとも思いましたが、やかて、大学外での悪評は、もっと進んでいるということがわかってきました。
 たとえば、学会の委員会にだれかが私を推せんしようとすると、企業からでている委員が反対して、どうしてもだめだということも聞こえてきました。
 自分が正しいと思ってしたことで人にきらわれるのはしかたないと思いましたが、自分が明らかにした事実も、それと一緒にうやむやになっていくのは残念でしかたありませんでした。
 そこで、事実だけを書き残しておこうと思い、本を書きはじめました。
 第;一章、自動車に悩む人ぴと、第二章、五十一年度規制は可能だった、第三章、今後自
動車をどうするか・第四章、道路建設を監している人ぴと、という四章構成にしました。
 第一章は・公害公害と大げさにさわぎすぎるという批判にこたえるために。第二章は、魔女裁判という批判にこたえるために。第三章は、公害を問題にする人は、近視眼的で、大きな展望がないという批判にこたえるため。第四章は、公害に反対する住民運動は集団ヒステリーだという批判にこたえるために書きました。
 しかし、より正確にいえば、批判にこたえるというよりも、それぞれのことについて、絶対まちがいのないほんとうのことを書き記したいと考えたのでした。
 だれでもものを書くときは、ほんとうのことを書いたと思っているのでしょうが、そのほんとうの姿というのが、書く人の立場や考え方によって、大きく変わってしまうということに、私は自然科学者として、大きな不満をもっていました。
 自然科学者は、事実の報告をする時、書く人によって伝えられる内容が大きく変わらないように、あるいは、ゆがめられないようにするため、細心の注意をはらいます。自然科学者にももちろん、個人の意見や見解かあり、そのために科学の進歩はあるのですが、意見や見解は、事実の報告とは分けて、はっきり意見と記してそれを書きます。意見によって事実の報告がまげられることをもっともきらうのです。
 それでは、だれが書いても同じ論文になるかというと、そうではありません。どんな事
実を掘りおこしてそれを報告するかは、その人の考えによることなのです。ですから、自然科学者の論争というのは、考え方のちがいを考え方で議論するのでなく、どちらが決定的な証拠事実をだせるか、相手をどこまで事実でもってたたきつぶせるかにかかっています。
 ただし、おたかいに紳士として、相手側の事実や実験の報告にうそがないこと、都合の悪いデータをかくしたりしていないことは、当然の前提として信用しているのです。もし一度でもこれに違反すれば、永久に学者としての生命はなくなると思わなければなりません。
 もちろん、信用するというだけではないわけですから、だれでもその実験をやりなおして、たしかめてみることができるように、実験の条件は、正確に記述することが義務になっています。
 たとえぱ、「溶液を十分に熱してよくかきまわす」という表現はいけないのです。「六〇度の温浴につけて、毎分二一〇回のかくはん器で、一〇分間かくはんする」と、書かなければいけません。
 つまり、自然科学の文章では、「十分に」とか、「よく」とかいう副詞は使ってはいけないのです。同じような理由から、「大きい」とか、「小さい」とかいう程度をあらわす形容詞も、使ってはいけないのです。「赤い」「白い」はよいのですが、「熱い」「冷たい」はいけないのです。
 形容詞や副詞を使わずに、何センチ、何度と、いちいち具体的に書かなけれぱならないのです。
 私は自動車公害の本を書くのにあたって、厳格に、この自然科学者の論文表現のルールに従って文章を書こうと決意しました。魔女裁判といわれたのにたいして反論するには、正確に聴聞会のようすを再現するだけで十分だと考えました。
 そのため、客観的な事実だけを積みかさねていくだけで、著者の意見はもちろんのこと、著者の感じや判断もすべりこませない文章を書くことにしました。
 それまで、公害をなくしていこうという立揚の人が書いたものの中では、こういう書き方はほとんどまったくなかったのです。しかし書きはじめてみると、こういう文章を書くことが、いかにたいへんかということがすぐわかってきました。
 たとえば、車の騒音になやまされるマンションをたずねて、ふつうなら、「夜中もたえまなく走りつづける大型車の騒音のため、住民の大部分は、不眠症からくるイライラをうったえていた」と、さらりと書いてしまうところかもしれませんが、この本では、つぎのように書きました。
「夜中も、一分間に約二〇台の大型車の通過があり、騒音レベルは七五ホンを下まわることはなかった。住民の六〇パーセントが夜中に目がさめると答えた。これにたいし、ちかくの静かなマンションの調査では、夜中に目がさめる人の割合は、二〇パーセントであった。家庭内で酒を飲む量がふえたと答えた人も、一五パーセントあった」
 ですから、ふつうならたった一行で書けることを書くために、一週間調査にかかったこともたびたびありました。「大きい」とか、「大量」とかいう形容詞を使わずに、数値を入れて書テ」うとするために、一日一行しか書けないこともしばしばでした。

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