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冒険する頭 新しい科学の世界
私の転機となった日

 私の転機となった日

 私の中学時代
 私は、ひとりでゆっくり考えてみたいと思いました。
 銀座のホテルをでてから、無意識のうちに私は池袋にむかつていました。高校時代、銀座にあった出版杜でアルバイトしていた私は、十数キロのこの道を、いつも自転車に本を積んで走ったものでした。
 商品の配達は、リヤカーか自転車の時代でした。届ける先は西武デパートでした。今見ると一〇階だて、延長四〇〇メートルのこのデパートも、当時はトタン屋根の小屋で、土間に屋台をならべただけという店でした。
 それから新宿にでて、伊勢丹デパートのまえを通りました。大学時代、ここにかよっていたことがあるのです。ここは当時米軍が占領していて、私はそこにつとめていたからです。学生が米軍につとめることはできませんが、適当にごまかしてつとめていたのです。
 学校がいそがしくなったら、親せきの医者に結核になったという証明書を書いてもらってやめようとかんがえていました。そうしたら、ほんとうに重症の結核になつてしまつたのです。当時、結核と宣告されるのは、今日、ガンと宣告されるのと同じでした。病院からの帰り道、世の中の人が水族館の魚のように見えたことをおぼえています。
 一日に読書一五分、ラジオ三〇分の絶対安静がつづきました。なんとか助かつたのは、友人のお母さんが、自分用のストレプトマイシン一〇グラムを、だまつて私にくれたからだと思います。当時、ストマイ一〇グラムが一〇万円で、これはふっうの人の給料の一年分でした。
 新宿から小田急線で玉川学園に行き、広大な敷地の中を歩いて、いちばん高い丘にのぼってみました。私は中学時代の半年間をここですごしたのです。ここは、中学一年で終戦をむかえてから二年のあいだ、まったく学校に行ってなかった私が、戦後、はじめてはいった学校で、大きな影響をうけたのです。
 この学校の教育方針は、「自学自習」、「全人教育」、「労作教育」でした。
 勉強は、自分で目標を立てて自由にやるものであって、画一的な授業はしないというのが自学自習です。また、人はだれでも、美しく歌え、絵がかけ、大工ができなければならない。勉強しかできない人間はダメ、というのが全人教育です。「肥たごがかつげて、しかも一流レストランで食事ができなければならない」ともいわれました。
 そして、労働を通じてほんとうの勉強が身につく、というのが労作教育です。これらの考えは、いずれも、その後の私の考え方の基本になっているように思います。
 中学時代、ずいぶんいろいろなことを考えながらこの丘を歩いたものでした。その丘の上でもう一度、今までのこと、これからのことを考えてみたいと思ったのです。
 あの時なぜ手をあげたのか、そしてそれは、結局、少し軽はずみな行為ではなかったんだろうか、自問する声が聞こえます。たしかに、あの時、手をあげたことには、偶然的要素が強いのですが、まったく偶然ではありません。それまでずっと考えてきたから手があがったのです。
 しかし、それだけでは手をあげた説明には不十分なようです。私が発言したような内容は、ほかにも考えていた先生がおおぜいいます。しかし、総長がみずからそれをいいだすまでは、あえてそれをいいだしにくい雰囲気でした。
 ところが私は、雰囲気に引きずられていうべきことをいわないのが、いちばんいやなのです。そういう時は、勇気をだして行動するようにつとめるのです。
 玉川時代もそういうことがありました。私は当時、トーソー委員長とよばれていました。闘争委員長ではなく、逃走委員長です。午後は毎日労作教育で、植林をさせられていたのですが、私は点呼をうけると、さっさと寮に帰ってしまうのです。それにはいい分がありました。
 当時の寮生の食事は、バタロールぐらいのパンが一個だけで、栄養状態はハンガーストライキの末期にちかい状態でした。こんなので働けるかということです。それに私は、戦争後二年間、学校に行かずに働いてばかりいたので、今度は勉強しようと思ったのです。
 中国から引き揚げて玉川学園にはいるまでの一年間は、伊豆の海岸で塩を焼いていました。塩は専売ですから、かってにつくったり売ったりできないはずですが、当時は野放しでした。薪をたいて、海水を蒸発させる原始的な方法ですが、塩一升 (一・八リットル) が米一升と交換できたのですから、きついけれど割りのよい仕事で、「労作教育」に精をだしていました。
 しかしふと気がついて、そろそろ学校に行こうとしましたが、二年間も学校に行ってないものは、どこの学校も入れてくれません。この時、玉川学園だけが、試験のうえ、中学三年に編入を許可してくれたのです。授業料もお金でな<、塩でよいというので、私は二週間一生懸命塩を焼いて、二俵(五〇キログラム)の塩をおさめました。
 そういう、たいへん恩義のあった学校ですが、逃走委員長をやったので、半年で事実上放校になってしまいました。
 とにかく私は、不合理なことにたいしては、みんながだまっているからとか、恩義があるからといっても、だまっていることができない性格なのです。そういう性格がいつ形成されたのか、考えてみました。

 私が大学院の時代に、政府の科学技術政策を批判するような論文を書いたことがありましたが、この時、忠告してくれた先輩がありました。
「君、国家にそむいちゃいけないよ、国家はなんでもできるのだから。なにも書けないようにすることもできるし、職をうばうこともできる。そうしたら、君、どうする」
 ひとまわり年上のこの人は、まじめな話をする時、いつも酒を飲んでいました。そして、プライベートな話では、国家をするどく批判しましたが、公けには、それをストレートに表現することはありませんでした。
 私はこういう態度にはついてゆけませんでした。彼は必要以上に国家を恐れていると思いました。私が戦争中の経験からこわいと思ったのは、むしろまわりにいるふつうの人びとです。戦争中、数々のおろかな行為が積み重ねられましたが、それが可能だったのは、上の人のお先棒をかついで走りまわるおっちょこちょいがいて、それにだまってついていく大多数の人たちがいたからです。
 大部分の人は、ほんとうのことを知らなかったためついていったのですが、責任が大きいのは、おかしいと思いながら、手をあげなかった人びとです。しかし手をあげた人におそいかかったのは、手をあげない人でした。
 それを恐れて、身をちぢめていたのが戦争中の国民です。したがって、臆病と利己心から、いうべき時に発言しないのが、いちばんいけないことだというのが私の信念です。

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