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私の転機となった日

 私の転機となった日

 旧満洲での生活

 これは、小学校から中学校の時期に敗戦を経験した私たちの世代に、共通の思いだと思いますが、旧満洲で比較的のんびりした少年時代をすごしたのち、敗戦につづく極限的状況を経験した私には、この思いはことのほか強いのです。
 旧浦洲の生活は、日本内地の生活にくらべて、はるかに解放的な雰囲気がありました。
 白系ロシヤ人の家族と色つきの卵をかざって、パスカという一か月おくれの復活祭をいわうと、外はもう春でした。木々は音をたてて育ち、朝と夕方には、その形を変えました。シベリヤにつづく大地は、見わたすかぎりのお花畑となり、サクラソウとアネモネは三〇センチにものびて、一つの山をおおいました。
 しかし夏はたちまちにすぎ、ニメートルものコスモスがどの家の庭にもゆれると、人は胸をしめつけられるように感じました。オオカミがしきりに鳴く声が家の近くまでせまってきました。
 冬の夜はにぎやかでした。軍人、医者、思想転向者など、さまざまな体験をもった人びとがきては去り、おとなたちは語りあきることはありませんでした。
 父親はたくさんの本を持一ていましたが、全部背表紙を奥にしてたててありました。持っていてはいけない本だったからです。一冊は『共産党宣言』でした。私が父の本棚からかってに取り出してはじめて読んだおとなの本は、スターリン著『レーニン主義の基礎』というものでした。
 しかし父は、私には物理学がたいせつだといって、力学や電気を教えました。私はメーターやトランスを集めて実験室をつくり、わけがわからない実験に夢中になっていました。
 私の最初の苦痛は、天皇を神さまと信ずることでした。父は以前、官内省につとめていて、天皇陛下を天皇さんとよんでいて、よくお菓子をもらってきました。犬をもらってきたこともありました。そういう人を神さまとしてあがめたてまつることは、純粋享どもの心には、すごく抵抗がありました。
 それが態度にあらわれたからだと思いますが、先生から、年中、はり倒されました。あまり苦痛なので、なんとか神さまと信じられるようになりたいとねがったものでした。
 するとある時、大正天皇のお妃が、天皇の死を悲しんでさめざめ泣く夢を見ました。それ以後気持がすなおになって、最敬礼できるようになつたことをおぼえていす。
 第二の苦痛は、家での話と学校での話がさかさまだつたことです。父はいつも、この戦争では日本はアメリカに勝てるわけはない、といっていました。いつもそれには物的証拠がついていました。ある時はそれはナイフであり、ドライバーであり、スピーカーでした。
 いずれも、日本製はひどい粗悪品で、ナイフはいくらといでも切れない、ドライバーはすぐ曲るし、スピーカーの音質にいたっては、比較にもなりませんでした。
 しかし、神国日本はかならず勝つという信念を固めていなければ、ひどい目にあう子どもとしては、家でこんな話をされるのは迷惑千万です。そこである日、突然怒って、父親をはげしく弾劾したのです。
「そんな考え方は非国民ではないか。みんな真剣に戦争している時に、そんなことを考えたりいったりするのは許せない」
 ということです。母親も賛成して、それ以後いっさいそういう話はしなくなりました。子どもが家庭内の言論弾圧をやったのです。
 小学生のうちは、なぐるのは先生でしたが、中学生になると、鉄拳制裁としょうする上級生による集団リンチが連日のようにつづきました。そういうことでもなければ口もきけないようなひよわな人間でも、上級生となると、ささいなインネンをつけては、にくしみをこめてなぐりかかってきました。
 そういう時、いつもうしろで指揮していたのは、街を守備する日本軍の部隊長のむすこでした。ある時、ひとりひとり立って軍歌を歌ったことがありますが、この男は、フランス語で、ラ・マルセエーズを上手に歌って、大かっさいをうけました。先生をふくめだれも、それが敵国フランスの革命歌であることを知らなかったのです。無教養が支配する野蛮な時代でした。
 やがて広島に原爆が落とされ、ソ連が参戦しました。この街を守るはずであった日本軍守備隊は、ソ連軍が国境をこえて進軍してくるのを聞くと、一般市氏をおきざりにして、自分たちの家族だけを連れて、特別列車を仕立てて逃げていってしまいました。
 ソ連軍が進入してくると、猛烈な略奪がはじまりました。つづいて、中国人の暴動と略奪がおこりました。数万人の中国人が、一〇〇〇人あまりの日本人におそいかかってきたのです。逃げまわる日本人に、石が雨のようにふりそそぎました。
 追いつめられた日本人が最後にたてこもったビルでは、恐怖にくるった人びとがつぎつぎ青酸カリを飲んで、浴槽にとびこんでは死んでいきました。各人に自殺用の青酸カリがくばられていたのです。私たち中学生は、浴槽から死体を引きあげては、外に放りださなければなりませんでした。
 最後まで徹底抗戦して、集団自決しようという人たちを、私の父などがなんとかなだめて、無条件降伏して、命だけ助けてもらうことにしました。収容所に送られる私たちに残されたのは、そのとき着ていた夏服と、ブリキの水筒一個だけでした。完全なこじきの姿でした。その格好で私たちは、満洲の厳寒の冬をこすことになったのです。
 こじきといっても、だれもめぐんでくれる人はいませんので、食べるものをかせがねぱなりません。親に余裕はないので、子どもは子どもで、自分の食べる分をかせがねばなりません。
 私ははじめ、ソ連軍の作業にでかけて働きましたが、ロシヤ人と対等に働かせられるのでとてもかないません。そこで商売に転向しました。タバコと粟餅の立ち売り行商をはじめたのです。
 まだかわいかったせいか、わりによく売れました。いやだったのは売れ残った時です。売れないと翌日の仕入れができませんから、戸別訪問販売で売りさばくわけです。これだけはどうも苦手でした。でも、商売というのは、やればなんとか生きていけるものだということがわかりました。それに、人に頭はさげますが、人に服従する必要はないのです。子どもの時に商売したことは、自分は人に服従しないでも生きていけるんだ、という自信をあたえてくれました。
 しかし商売では、生涯忘れられない悪いことをした思い出が一つあります。そのころ満洲では、何種類もの紙幣や軍票 (軍隊がかってに発行して、強制的に通用させる紙幣) が流通していましたが、それが急に使えなくなることがありました。それも、街の一角に、これこれの紙幣はきょうから無効という、小さい掲示が一ヵ所でるだけなのです。
 きょうはばかによく売れるなと思っていると、うけとったお金が全部、紙きれにすぎないことがあとでわかるのです。そうすると人は、いそいでそれを、まだ知らない人におし
けようとするのです。
 私も用心はしていましたが、五〇〇円ほどそういうお金をつかんだことがありました。今のお金で一〇万円か二〇万円です。紙きれと知った時、ふるえがきました。両親もおろおろするばかりです。それを見た時、悪い考えがひらめきました。
 数日まえ、足の悪い洋服屋さんが買いものにきて、五〇〇円札をだしましたが、おつりがなかったので、おつりをあずかったままにしていたのです。このお金でおつりをはらってしまえばよいということです。家で仕事している人だから、まだ知らないだろうとふんだのです。
 私は妹に命じて、夜おそくおつりをとどけさせました。案の定、お礼をいってうけとったそうです。しかし、翌日になってから、松葉杖のその人が、血相を変えてどなりこんできました。こちらもしらなかったとしらをきったのですが、最後はお金をたたきつけて帰っていきました。何十年たっても忘れることができない、申しわけない思い出です。
 魯迅が、中国は人が人を食う杜会だといいましたが、旧中国はまさにそうしなければ生きられない杜会だったのです。
 弱いものが、さらに弱いものをふみつけて生きていくというほど悲惨な光景はないと思います。しかし商売というものには、放っておけばそういうところがあるのです。そういうことがあったため、たとえ強い人はふみつけても、弱い人はふみつけないというのが、私の基本的な生活信条になったように思います。
 それ以上に、人が人をふみつけないですむ杜会制度を実現することが必要だと考えつづけてきたのです。それは、商売万能の世界とはことなるはずです。服従する必要もなく、人をふみつけることもない杜会がどうしたら実現できるか、というのが人間の大きな課題だと思います。

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