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卒業生におくることば

 卒業生におくることば              

 夏目漱石の小説で有名な三四郎池には、いつのころからかアヒルがいます。春の日をうけてこのアヒルの白さが目立つようになると、卒業式のシーズンですが、東大には今は卒業式がないのです。昔は、ドイツの哲学者フィヒテに似た総長がいて、卒業式には、政治の理念をとき、現実の政治を憂える大演説をし、全国の新聞がその内容を詳細に伝え、それを見たワンマン首相が、怒り心頭に発し、「曲学阿世の徒」とどなりだしたりしたこともあって、東大の卒業式は、杜会的にもひろく注目された行事でした。
 その後、総長が変わって、「小さな親切」をすすめたり、「ふとったブタよリやせたソクラテスになれ」とさとしたりで、首相をおこらせることもなくなりましたが、それでも東大の卒業式というのは、杜会的にはある権威をもった行事でした。
 こんな権威に反発した学生が、実力でもって卒業式を粉砕しょうとしました。これが「東大紛争」の発端です。紛争が一応おさまつたあとも、卒業式をやるとなると粉砕しようとする学生が粉砕できる数だけいる反面、昔のとおり卒嚢式をやるべきだという意見は一つも強くないものですから、それっきり卒業式はないのです。
 工学部では、各学科ごとに卒業証書を学生にわたします。その年は私がわたす当番にあたりました。学生の名前をよんで、試験答案をかえすように卒業証書をわたしました。もう少しもつたいをつけて、左手でわたして右手で握手する先生もいるようですが・小学校の卒業式みたいになっておかしいのでやめました。
 四、五分で配りおわると、これでおしまいですが、みんなは、私がひとことしゃべるのをなんとなく待っているようです。
 しかたがないので、とくに用意はしませんでしたが、しゃべりはじめました。「おめでとう。卒業がおめでたいんじゃない。入学すれば卒業するのはあたりまえだからね。そうではなくて、就職なり大学院なり、それぞれが新しい人生を歩みだす出発点だから祝福のことばをおくりたい。
 諾君は、それぞれすばらしい学生だったと思う。まず、すなおでまじめで、ひじょうに気持のよい人たちだつたと思う。それにぼくらの学生時代にくらべたら、はるかによく勉強しているし実力もあると思う。しかしそれなのに、何か自信がたりないのは、どうしてだろう。
 ぼくがここで自信というのは、なにかやったぞというギラギラした自信ではない。そんなものは劣等感とうらはらだ。そうではなく、どんなピンチの時も、自分の判断と力を信じることができるような静かな自信だ。ちかごろ独創的な仕事の必要性がずいぶん強調されるけれど、それは独創的な思いつきだけではできない。自分の方針と力にたいする静かな自信がなけれぱ、とても独創的な仕事なんかできやしない。第一、自信のない人間なんて、つき合ってみても、なんの人間的魅力もないじゃないか。
 ならったことがいくらよくできても、それが自信につながらないことは君らがよく知っているだろう。できてあたりまえだからね。人にゴールとコースを教えてもらったうえで、いくらはやく走ってみても、それは自信にはならない。自分で決めたゴールにむかって、自分で苦労してルートをさがしだして成功しなけれぱ。ハイウェイだけを走っていたら、いくらはやく走っても自信はつかない。諾君には、いいかげんにハイウェイをおりろといいたい。
 しかし、ハイウェイからおりるというのは意外にむずかしいことだ。考えているとなかなかおりられない。そこで大事なのは、思わず手をあげて宣言してしまうことだ。そのきっかけはなんでもよい。そうしたらもうひっこみはつかない。自分で自分の道を歩かなければならなくなる。
 それにもう一つ大事なのは、自分を客観的に見る眼をもつことだ。これはひじょうにむずかしい。そこで最初は、自分のまわりの人をふかくするどく客観的に見る訓練をしたらよいだろう。ただし、人間を信頼する暖かい気持を忘れずにだ。そうしたら、どんな人間もみんな喜劇を演じているということがよくわかってくるだろう。君自身が喜劇を演じているということも。その時はじめて自分がよく見えてくるだろうこれがぼくから君たちにおくることばだ。さようなら」

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